鬼才監督、AI批判のため「醜悪な」画像をあえて使用
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ルーマニアの映画監督ラドゥ・ジュデ氏が、新作映画『Dracula』でAI生成画像を意図的に使用し、物議を醸しています。ジュデ監督はAIを「グロテスクで気味悪い」と評しながらも、その技術が持つ問題を批評するためにあえて活用。この挑発的な試みは、創造性とテクノロジーの関係に新たな問いを投げかけています。
なぜ、批判的な監督がAIを使ったのでしょうか。ジュデ監督は、AIが生成する画像には「キッチュで悪趣味な要素」が常につきまとうと指摘。その醜悪さこそがAIの本質を突くと考え、批評の道具として利用しました。また、限られた予算の中で映画を製作するための現実的な解決策でもあったと明かしています。
監督が注目したのは、AIが生み出す「エラー」です。フォトリアルな完成度ではなく、手が3本ある人物など、AIが犯す「間違い」を意図的に採用。そこに不気味さだけでなく、「デジタルの詩」とでも言うべき新たな芸術性を見出したのです。AIの不完全さを逆手に取った表現手法と言えるでしょう。
この試みは、特にAIに敏感なアメリカの映画業界で大きな反発を招きました。しかし監督は、ルーマニアの映画産業は規模が小さく「失うものがない」ため、こうした実験が可能だったと語ります。業界の反発を覚悟の上で、新しいツールとしてのAIの可能性と危険性を探ることを選びました。
監督は、AIがアーティストの創造的な労働力を吸い上げて成り立つ様子を、マルクスの資本論になぞらえ「吸血鬼的」だと表現します。まさに映画の題材である『Dracula』とAIの搾取的な側面を重ね合わせ、テクノロジーが内包する問題を鋭くえぐり出しているのです。
ジュデ監督は今後も、必要に応じてAIを使用することに躊躇はないと述べています。彼の挑戦は、AIを一方的に拒絶するのではなく、その本質を理解し、批評的に関わることの重要性を示唆します。テクノロジーとどう向き合うべきか、経営者やエンジニアにとっても示唆に富む事例です。